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『送杜少府之任蜀州』(杜少府の任に蜀州に之くを送る) 王勃

更新日:2022年10月16日

作者の王勃(おうぼつ)の代表作です。


初唐の詩人で、650年生まれ(諸説あり)。

杜甫の生まれる62年ばかり前に山西省の儒家で生を受けました。

祖父は儒者の王通(とう)です。


現代の日本では必ずしも知名度が特に高いとは言えませんが、古くから親しまれてきました。『唐詩選』にはこの詩を含めて3首採録されています。


現存する詩は76首。早熟の天才で、26歳前後で亡くなっています。

日本だと、石川啄木のようなイメージでしょうか。


16才にして科挙に合格、王族の歴史編纂所に勤務していましたが、王族間で争われる闘鶏を応援する為に、戯れに書いた檄文(げきぶん)が高宗の怒りに触れ,謹慎処分を受けて四川の成都に飛ばされます。

この三年ほどの期間に大量の創作活動を行なったようです。


長安に帰ったあと、虢州・参軍(軍の下級管理職)に復職、赴任しますが、今度は官奴(公費で雇われた下僕)を殺したかどで官吏の資格を奪われてしまいます。


さらに不幸なことに、この事件に連座して、父の福畤も遠く交趾(ベトナム北部)に

左遷されてしまいます。


そして、その父をたずねていく途中,(或いは、父に会ったその帰りという説もありますが)

海難事故で命を落とします。満26才、あるいは27才の若さだったことになります。

早世の天才詩人を惜しむ後世の者としては、事故死がせめて父に会った後であったことを願わずにいられませんね。


しかし、何という不運続きの人生だったことでしょう。

最初に左遷されたときも、王族たちの間で流行っていた闘鶏に際し、檄文を書いて王子達の対立を煽った、というわけの分からないような罪状で飛ばされていますし、殺人事件も、若くして天才的な振る舞いが多かったために妬まれた上での罠だったとか、諸説あるそうです。


短い生涯ながら五言律詩を中心に多くの作品を残しました。


送杜少府之任蜀州sònɡ dù shào fǔ zhī rèn shǔ zhōu   

杜少府の任に蜀州に之くを送る

王勃  wáng bó


城阙辅三秦chénɡ què fǔ sān qín 城闕三(じょうけつさん)秦(しん)を輔(ほ)し


风烟望五津fēnɡ yān wànɡ wǔ jīn 風(ふう)煙(えん)五(ご)津(しん)を望む


与君离别意yǔ jūn lí bié yì   君と離別の意(おもい)


同是宦游人tónɡ shì huàn yóu rén 同じく是(こ)れ宦遊(かんゆう)の人


海内存知己hǎi nèi cún zhī jǐ 海内(かいだい)知己存し


天涯若比邻tiān yá ruò bǐ lín  天(てん)涯(がい)比(ひ)隣(りん)の若(ごと)し


无为在歧路wú wéi zài qí lù   為(な)す無(な)かれ岐路(きろ)に在りて


儿女共沾巾ér nǚ ɡònɡ zhān jīn 児(じ)女(じょ)と共に巾(きん)を沾(うるお)すを


意味をみてみましょう。

少府という役職についている杜という友人が蜀州(四川)に赴任するのを見送る、というのが表題の意味です。

この友人が具体的に誰を指すかは不明です。


【首聯】

「城阙」とは都の宮殿のことです。「三秦」とは長安付近の中心地域をさします。

秦朝滅亡時に、項羽が首都咸陽を取り巻く地域を三つに分け、秦を打倒する際、秦から寝返って功績のあった三人の武将にそれぞれの地域の治安を任せたことから、三秦と呼ばれるようになったそうです。


この句は平仄を合わせるために、語順をひっくり返していますが、意味は三秦の地が都長安の宮殿を取り囲むようにして守っている、ということです。帝都の地形を示しています。

「风烟」とは靄(もや)や霞のことです。

「五津」とは、四川省を流れる泯江の代表的な五つの波止場を指します。

この聯では、快適で安全な都を離れて、遙か遠く靄にかすむ赴任先の蜀の地へ赴く多難な道中を暗示しています。


【頷聯】

「君」とは赴任して行く友人杜少府を指します。

「宦游人」とは、遠く故郷を離れ、左遷や転勤を運命づけられた役人の身の上を表わす言葉です。

この聯では同じ宿命を背負った友人への同情を表しています。

「宦」とは役人のこと。「游」には故郷を離れるという意味があります。


【頸聯】

「海内」とは四海の内、中国全土を表わす言葉です。

「天涯」とは天の果て、遠隔の地を表します。

「比邻」とは近隣のことです。

この聯の意味は、どんなに遠く離れたところにも心を通わす友人は必ずいる、みんな隣同士のようなものだ、ということです。


たった一人で赴任していく友人に対する慰めの言葉です。

ちなみに『論語』には「四海之内皆兄弟也」(四海の内皆兄弟なり)という言葉があり、現在では世界中の人はみんな仲良くすべきだ、という意味で使われますが、元来、失意の友人を慰める言葉として使われています。



【尾聯】

「无为」(無為)とは、~してはいけない。

ここでは禁止を表わす言葉として使われています。


「儿女」(児女)とは、本来の意味は「儿」が息子で「女」が娘ということですが、一般には未成年の男女、少年少女という意味で使われます。


ちなみに「儿女之情」とは若い男女の恋愛感情のことです。

「沾巾」は涙がハンカチをうるおす、つまり激しく泣くことです。

この聯の意味する所は「別れに涙は禁物」ということでしょうか。


この詩がいつ書かれたか定かではありませんが、おそらく作者自身が左遷の苦い経験の後、都に帰され、そこで自分と同じように、同じところに左遷され、同じような苦難が予想される友人を慰めるために作ったものかと思われます。


「この広い中国全土、どこへ行こうと心を通わす友人がいて、みんなお隣さんのようなものだよ」と言われても、世の中そんな甘いものではないことを一番よく知っているのは作者自身です。


そのことを分かった上で、やはり慰めの言葉を掛けずにはおれなかったのでしょう。

送られる友人も同じ思いであったに違いありません。


作者のその気持ちが解るからこそ友人は涙をこらえることが出来なかったのでしょう。

「子供じゃあるまいし、そんなに泣くんじゃないよ」

これが送る側として最後、精一杯の励ましでした。

しかし、この後の人生、この数倍も悲惨な結末が待っていようとは、この時作者自身、知る由もありませんでした。


こうして、作者自身の人生を知ったうえで、詩を鑑賞しますと、わずか五十文字から、まるで映画を観ているかのように様々なシーンが浮かび、感情を揺さぶられます。


他者の人生により多く共感するには、自らの体験が必要です。

より多くの体験をするためには、より多くの時間が必要なわけで、深く詩を鑑賞するには、年齢を重ねる方が良いのだなぁ、と来年からはアラフィフ女子になる自分に言い聞かせている今日この頃です。

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