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第105回中国語検定 3級筆記【4】長文 日本語訳

masumi.h

更新日:2022年10月15日

※以下の和訳は、あくまで当社の見解であり、日本中国語検定協会とは一切関係ありません


说起“罗森”,大家都会想到便利店,很少有人知道近代史上有一个叫罗森的中国人, 他直接参与 1854 年的《日美和亲条约》谈判,见证了“日本开国”,在日中文化交流史上留下了 一段佳话。 罗森是广东人,出生于书香世家。他既精通古典,又擅长书法,还会说英语。 他在香港当老师,长期教外国人学汉语。

1853 年,佩里率美国舰队来香港,又从香港出发到日本。 同年 7 月 8 日,美国舰队出现在东京湾,日本史称“黑船来航”。当时佩里用荷兰语跟日方交流,觉得交流很困难,所以第二年去日本签订条约的时候,佩里带了两个懂英语和汉语的翻译,一个是美国传教士,另一个就是罗森。 罗森不懂日语,他把英语翻译成文言文,日语叫“汉文”。那时候的日方官员大都精通“汉文”,不仅能看懂,而且还会写,能用汉字准确地表达意思。这种日中两国文人的特殊交流形式叫“笔谈”,罗森就是日中近代“笔谈”的先驱。

日本驻华大使高度赞扬罗森:“黑船打开了日本近代化之门,罗森从中起到了重要作用。”说起“罗森”,大家都会想到便利店,很少有人知道近代史上有一个叫罗森的中国人, 他直接参与 1854 年的《日美和亲条约》谈判,见证了“日本开国”,在日中文化交流史上留下了 一段佳话。

罗森是广东人,出生于书香世家。他既精通古典,又擅长书法,还会说英语。 他在香港当老师,长期教外国人学汉语。

1853 年,佩里率美国舰队来香港,又从香港出发到日本。 同年 7 月 8 日,美国舰队出现在东京湾,日本史称“黑船来航”。当时佩里用荷兰语跟日方交流,觉得交流很困难,所以第二年去日本签订条约的时候,佩里带了两个懂英语和汉语的翻译,一个是美国传教士,另一个就是罗森。 罗森不懂日语,他把英语翻译成文言文,日语叫“汉文”。那时候的日方官员大都精通“汉文”,不仅能看懂,而且还会写,能用汉字准确地表达意思。这种日中两国文人的特殊交流形式叫“笔谈”,罗森就是日中近代“笔谈”的先驱。日本驻华大使高度赞扬罗森:“黑船打开了日本近代化之门,罗森从中起到了重要作用。”


「羅森」といえば、おそらくみなさんの頭に浮かぶのはコンビニで(中国語で「羅森」簡体字では“罗森 Luósēn”は「ローソン」の意味)、近代史上羅森という中国人がいたことを知る人はほとんどいないでしょう。彼は1854年の「日米和親条約」締結のための交渉に直接かかわった人物で、日本の開国に立ち会った人です。日中文化交流史上あるこのような話が残っています。羅森は広東の人、代々読書人を排出する名家に生まれました。古典に精通し、書道にも優れた才能があり、英語も話すことができました。彼は香港で教師をして、長いこと外国人に中国語を教えていました。1853年、ペリーはアメリカの艦隊を率いて香港に寄港し、香港から日本に向かいました。同じ年の7月8日、アメリカ艦隊は東京湾に現れました。日本史でいうところの「黒船来航」です。当時ペリーはオランダ語で日本側と交渉していましたが、交流がうまくいっていないと感じていました。そこで、翌年条約締結のために日本に向かう際、英語と中国語がわかる通訳を二人連れていきました。一人はアメリカ人宣教師、そしてもう一人が羅森でした。羅森は日本語がわかりませんでした。彼は英語を文言文、日本語で「漢文」と呼ばれる言葉に翻訳しました。当時、日本の役人たちはほとんどが「漢文」に精通していました。読んでわかるだけでなく、書くことも、漢字をつかって正確に考えを伝えることもできました。こうした日中両国の文人の特殊な交流形式を「筆談」といいますが、羅森は日中近代の「筆談」の先駆者であります。日本駐日大使は「黒船は日本の近代化への扉を開いた。羅森はその中で重要な働きを果たした」と言い、羅森を高く評価しています。


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