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【古稀の由来になった漢詩】杜甫の「曲江」

masumi.h

更新日:2022年10月16日

【古稀の由来になった漢詩】


古稀という言葉は誰でもご存知でしょう。

その由来が「人生七十古来稀なり」という言葉だとはご存知の方も少なからずいらっしゃるでしょう。


しかし、これが杜甫の「曲江」という詩が出典となっていることはあまり知られていないようです。

私も初めて知りました。

杜甫が生きたのは世界に繁栄を誇った唐王朝が傾いた動乱の時代。


この詩は安禄山の乱の後、荒れ果てた都の様子を嘆いたかの有名な「春望」を書いた翌758年の作品だそうです。

杜甫は元々、玄宗皇帝のもとで理想の国づくりをしたいという野望を持っていましたが、安禄山の乱で玄宗皇帝が破れ、子「粛宗」が帝となると、その即位地へ駆けつけます。

しかし捕らえられ都へ戻されます。


その時、長安の荒廃ぶりをみて「国破れて山河あり…」と詠んだのでした。

その後、また命からがら脱獄し、当時、粛宗のいた南の鳳翔という地まで追いかけていくのです。

そんな健気な杜甫の行動に感激した粛宗は科挙に合格していない杜甫に左拾遣という役職を与えます。

これは、のちに白居易も務めた役職です。

位は低いものの、皇帝に直言できる、という役割です。

ノンキャリとしては、最高の位といえます。


しかし、敗戦の罪を着せられた房琯を弁護して、粛宗の怒りをかってしまうのです。

この背景には親子の骨肉の争いと、それぞれの派閥争いが絡んでいました。

房琯は父玄宗皇帝の派閥に属する人間だったのです。


玄宗皇帝は安禄山の乱で、しぶしぶ位を譲りはしたものの、息子に帝位を奪われた、と面白く思っていませんでした。

ですから、息子の代になったとはいえ、宮廷内では、玄宗派と粛宗派の二つの派閥が水面下で戦っていた、という複雑な状況だったようです。

粛宗は、杜甫が父に心酔していたことは知っていましたから、彼の直言がイチイチ面白くありません。

杜甫にしても、いくら進言しても聞き入れてもらえないので、次第に仕事に対する熱意を失っていきます。

また、粛宗は玄宗皇帝のように詩や芸事を愛した多才タイプでなく、現実主義者でもありました。

父がもち崩した国を何とか立て直そうとしていた真面目な人間だったのでしょう。


杜甫も、愛国心から国に仕えたものの、派閥闘争にもまきこまれ、うまくいかない。

「曲江」はそんな最中に書かれた詩だったのです。

前半と後半でガラリと雰囲気の変わる新鮮な構成をとった七言律詩です。


第一句

「朝廷から帰ると、衣装を毎日質に入れる」結構インパクトのある出だしです。


第二句

「毎日、酔い潰れて帰る。」


第三句

「酒の借金は当たり前のように行く先々である。」

というやけっぱち路線まっしぐら(笑)


第四句

「この人生、七十まで長生きすることは滅多にないのだから、今のうちにせいぜい楽しんでおきたいのだ。」

という件の名句が来るのです。

そして、この句を境にガラリと自然描写に変わります。


五句目

「花の間を縫って飛びながら蜜を吸っているアゲハチョウは、花の奥の方に見え」


六句目

「水面に軽く尾をチョンチョンとつけながら、ゆったりと飛んでいる。」


七句、八句目

作者が自然に話しかけるようになっています。

私は自然に対して伝えたい。

「そなたも私も時とともに流れていくのだから、お互いに愛であって、そむくことのないようにしようではないか。」


前半は、ストレスをかかえて、毎日ヤケ酒。

呑んだくれて、あちこちで借金を繰り返すダメ親父の姿が目に浮かびます。

杜甫は14歳ですでにお酒を飲んでいたそうです。今だとアウトですよねぇ。。


その頃から洛陽の名士たちと酒を飲んでは詩を作っていたわけですから、天才少年だったのでしょう。

今でいう中学生から飲んでいたのですから、強いことは間違いないでしょうけど、あちこちで借金するほど量も飲んだんですね。


中国語で酒量の大きいことを「海量」と言いますが、杜甫に関してはこの表現も大袈裟ではなかったかもしれないな、と思っていると漢詩の先生が「完全にアル中だったと思いますよ」と仰ったので、なるほど、と納得しました。


役人としての地位は低く、給料も安かったので、酒代は到底払えなかったのでしょう。

粛宗の下で、相当なストレスを抱えていたものの、この宮廷仕えの時期、王維などの友人達と交流も出来たので、杜甫の人生のなかでは、どちらかといえば幸せな時期だったかもしれません。


qū jiāng èr shǒu qū èr 

曲 江   二 首 。 曲 二


zhāo huí rì rì diǎn chūn yī 

朝 回 日 日 典 春 衣 

měi rì jiāng tóu jìn zuì guī 

每 日 江 头 尽 醉 归 

jiǔ zhài xún cháng xíng chù yǒu 

酒 债 寻 常 行 处 有 

rén shēng qī shí gǔ lái xī 

人 生 七 十 古 来 稀 


chuān huā jiá dié shēn shēn jiàn 

穿 花 蛱 蝶 深 深 见 

diǎn shuǐ qīng tíng kuǎn kuǎn fēi 

点 水 蜻 蜓 款 款 飞 

chuán yǔ fēng guāng gòng liú zhuǎn 

传 语 风 光 共 流 转 

zàn shí xiāng shǎng mò xiāng wéi 

暂 时 相 赏 莫 相 违 


朝よりりて日日春衣を典す 

毎日酔いを尽くして帰る 

酒債は行く処に有り 

人生七十稀なり


花を穿つ蝶深深として見え

水に点ず 蜓款 款として飛ぶ

伝語す風光共に流転し

暫時して相こと莫れ


やけっぱちの後は、どうせ長くは生きられないのだから、今この瞬間を楽しまないと、と移りゆく季節と動物、植物に目を向ける杜甫。

時として人間関係につかれ、自然に心の救いを求める姿は、なんだか現代でもありそうなことですよね。


この後杜甫は、ついに左遷され、各地を転々と流浪した挙句、満58歳で古希には遠く至らず人生を終えました。

歴史に翻弄され、人間関係の複雑な渦に巻かれながら、その時々で想いを詠んでいるのですが、背景社会になにがあり、杜甫個人の身になにが起こっていたかを知ると、なるほど、詩の一字一句が杜甫の想いと重なり、その感情がリアリティをもって迫ってきます。


写真撮影 藤野彰氏



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