前回に引き続き中唐期の詩人、刘禹锡の作品で「踏歌四首其一」という七言絶句です。
踏歌とは地方のスタイルで、足を踏みならしながら歌うことです。
「踏歌」を辞書で引きますと奈良から平安時代に行われた群舞形式の歌舞。
中国から移入された芸能であるが,次第に日本化し,これより古くからあった歌垣とも合体して流行した、とあります。
唐の時代、中国の地方で行われていた行事が、日本にも伝わっていたのですね。
そして本国ではおそらく少数民族以外に類似の慣習は消滅したと思われますが、日本にでは今現在も大阪住吉神社,名古屋熱田神宮,熊本阿蘇神社,などで、踏歌神事がわずかに面影を伝えているとは、感慨深いものがありますね。
これもまた恩師が常々仰っている
「日本は中国文化の冷凍庫である」という事例の一つかと思います。
春江月出でて堤平らかなり
堤上の女郎袂を連ねて行く
新詞を歌い尽くすも歓見れず
紅霞に映じてしゃこ鳴けり
さて、一句目は春江とありますが、春の揚子江は雪解け水で増水する時期だそうです。
月出でてというのは、春の満月の晩に満々と水を湛えた川辺で集団見合いをやっている情景なのですが、ニ句目の堤上の女郎とは、堤の上を女の子達が集まって歩いていく様子を表しています。
ここでの女郎とは、普通の若い娘さんのことです。
なんだか春の芽吹きの香りと共に若い男女のざわめきが聞こえてきそうな一、二句目です。
ところが、続く第三句目は新詞を歌い尽くしても、「歓」見れず、と一人の女性の胸の内を描いています。
「歓」とは、ここでは意中の人、彼氏を指します。男女が歌を交わしながら、気の合う人を見付けるこの行事。
周りの女の子が次々と相手を見付け、二人で何処かに消えていくなか、夜通し歌い尽くしても、相手が現れないのは何とも寂しいことですね。
第四句目の紅霞に映じてしゃこ鳴けり、とは朝焼けに木々や草木の姿が見え始める頃になって、キジ科の鳥、シャコが鳴いている声が聞こえるというのです。
シャコが鳴く、という表現自体が作詩の上で寂しさを連想させるもので、意中の彼と出会えなかった女性の心の内を見事に表しています。
ただ、この第四句目は紅霞とシャコが鳴く、というので夕方のイメージもするのですが、 月が出た頃から始まっていることもあり、紅霞は朝焼けを指し、シャコの声はごく早朝の森に寂しくこだましているのかと思われます。
劉禹錫はこの他の作品でも夜通し男女が歌を交わす行事を題材にしたものがあることですから、この詩に詠われた行事もそうだった可能性が高いと思われます。
何れにしても、相手の見目形だけでなく、歌声と歌詞のセンスからも判断するというのは、現代においても新鮮ではないかと思いました。
私の独断の偏見ですが、異性の声もさることながら、言葉に対するセンスの一致もかなり重要じゃないかなぁ、なんて思います。
さて、この詩に詠まれた女性、次の機会には素敵な伴侶に巡り会えたでしょうか。
つい、そうであって欲しいと願わずにはいられません。
先年以上に生きた女性の気持ちが、一編の詩を通してこうして瞬時に現代の私達と繋がること、これも漢詩の動かし難い魅力の一つなのです。
tà gē sì shǒu qí yī
踏 歌 四 首 其 一
liú yǔ xī
刘 禹 锡
chūn jiāng yuè chū dà dī píng
春 江 月 出 大 堤 平
dī shang nǚ láng lián mèi xíng
堤 上 女 郎 连 袂 行
chàng jìn xīn cí huān bú jiàn
唱 尽 新 词 欢 不 见
hóng xiá yìng shù zhè gū míng
红 霞 映 树 鹧 鸪 鸣
写真撮影 藤野彰氏
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